聖マリア・ファウスティナが受けた預言

これを書き記しなさい。審判者として私が来る時、私はまず、いつくしみの王としてやって来る。正義の日が訪れる前、天にはその印が現れる。天と地において、全ての光が消え失せる。天空には十字の印が現れる。私の手と足の傷からは、しばらくの間、地(地球)を照らし出す光が放たれる。それは、終わりの日に先立つ、ほんのしばらくの間である。(右の絵は、神の慈しみの御絵。主の聖心から出ている2つの光線は、青白い方が霊魂を義とする水。赤い方が霊魂の生命である血を意味します)この2つの光線のもとに生きる人は幸い。神の正義の御手は、この人を捕らえることが出来なからである(229番)

預言では、ありませんがとても重要なメッセージです。「わたしのいつくしみについて世界に話しなさい。全人類は、わたしの限りないいつくしみを見きわめるように。それは、終末の時のための印である。その後、正義の日がやって来る。まだ時間がある内に、私のいつくしみの泉に近づき、彼らのために流れ出た血と水を利用するように彼らに言いなさい」 (848番)

「私の秘書よ、わたしは、正しい人のためよりも、罪人のために気前がよいと書きなさい。彼らのために地上に降り、・・・・・・彼らのために血を流した。彼らが、わたしに近づくのを恐れないように。彼らこそ誰よりも、私のいつくしみを必要としている」(1275番)

「人が、信頼を強くすればするほど、たくさんの恵みが与えられる」 (1576番)

「私は、苦しんでいる人類に罰を与えたくない。私のいつくしみ深い心に人類を引き寄せることによって人々を癒したい。人々が、私に罰を与えるように強いる時だけわたしはそうする。私の手は、正義の剣を取ることを好まない。正義の日の前に、私は、いつくしみの日を送っている」 (1588番)

十字架の死に至るまでのイエズスの従順は、「正義の剣を遠ざけて、いつくしみの期間を延ばしました」 その為に、現在は、いつくしみの時なのです。この世に生きている間に誰にでも回心のチャンスが与えられています。神は絶えず人間の回心を待っています。実はそれだけではなく、神はあらゆる罪の中に生きている人間を、ご自分のいつくしみをもって追いかけています。いつくしみ深い神は忍耐強い方なので、すぐに罰を与えることはありません。罰のためには永遠があります。正義の日がやってくる前に、神はまずいつくしみの日を送り、いつくしみの王を遣わします。しかし、もしいつくしみの王であるイエズスを受け入れないならば、その人は正しい審判者であるイエズスの前に立つことになります。

「正しい審判者として来る前に、まず私のいつくしみの戸口を広く開ける。この戸口を通って入りたくない人は、正義の戸口を通って入らなければならない」(1146番)

「誰一人も、私の手から逃げることが出来ないと罪人に言いなさい。彼らが、私のいつくしみ深い御心から逃げているならば、必ずわたしの正義の手に陥る。は、いつも彼らを待ち、彼らの心がわたしに向かって鼓動しているかを聴いていると罪人に言いなさい。書きなさい。わたしは、良心のかしゃく、失敗と苦しみ、または嵐と雷、教会の声を通して彼らに語っている。わたしのすべての恵みを無駄にしてしまうならば、わたしは、彼らに怒りを感じ始め、縁を切り、望みのままにする」(1728番)

「最も大きな罪を犯している人が、私のいつくしみに信頼するように。他の人よりも彼らこそ、私のいつくしみの淵に信頼する権利がある」 (1146番)

「私のいつくしみから恵みを汲むためには、ただ一つの器しかない。それは、信頼なのである。人は、信頼を強くすればするほど、たくさんの恵みが与えられる」 (1578番)

「私は、自分自身をあなたの信頼に任せる。あなたの信頼が大きいほど、私は、限りなくいつくしみを与える」 (548番)  「私を信頼しないことが、何よりも私を大きく傷つける 」(1076番)

ゆるしの秘跡
シスター・ファウスティナの日記によると、主イエズスは、私達が、ゆるしの秘跡を受けることによって、神のいつくしみを礼拝すると強調しています。 
シスター・ファウスティナに向かって、主イエズスはこう語ります。「私のいつくしみについて書き、話しなさい。慰めを探すべきところを人々に教えなさい。それは、いつくしみの裁判所である。そこでは最も偉大な奇跡が絶えず繰り返される。わたしの代理者のもとに近づき、自分の全てのみじめさを話すだけで、神のいつくしみの奇跡は完全に現れる。魂は、腐りつつある死体のようであっても、あるいは人間にとっては、復活が不可能となり、すべてが失われたようになっても、神にとっては、そうではない。神のいつくしみは完全にこの魂を復活させる」(1418番)

ゆるしの秘跡に近づく時、告解所には、わたし自身があなたを待っていると言うことを意識しなさい。私は、司祭の姿に隠れるが、魂において自分自身で働く。ここでは、みじめな魂は、いつくしみの神と出会う。このいつくしみの泉から、ただ信頼という器だけで恵みを汲むことが出来ると人々に言い伝えなさい。彼らの信頼が大きければ大きい程、私の気前よさには限界がない」(1620番)

御聖体拝領
イエズスは、シスター・ファウスティナにこんな言葉を語りました。「わたしは、人間の霊魂と一致することを望む。霊魂と一致することは、わたしの大きな喜びである。聖体において人間の心に入る時、私の手はあらゆる恵みで満たされている。この恵みを人々に与えたいが、人々は私を無視し、一人に残して、別の事に心を向ける。人々が愛を見きわめない為に、私はとても悲しんでいる」(1385番)

「聖体において、わたしと一致する人が少ないので、わたしはとても苦しい。わたしは人々を待っているのに、彼らはわたしに対して無関心である。わたしは心をこめて、これほど誠実に彼らを愛しているのに、彼らはわたしを疑う。彼らにたくさんの恵みを注ぎたいのに、彼らはそれを受け入れたくない。わたしには愛といつくしみに満ちあふれる心があるのに、彼らは、わたしを何か死んだものように扱う」(1447番)

「最も大きな罪を犯した人であっても、わたしの憐れみを願うならば、わたしは、彼に罰を与えることが出来ない。その代わりに、わたしの限りない、はかり知れないいつくしみによって彼を義とする」  (1146番)

(※信頼するようにと罪人に呼びかけるイエズスは、こう言われます。「痛悔する魂にとって、私は、いつくしみである」(1739番) 痛悔なしの信頼は、単なるハレンチであり、いつくしみではなく、放縦を期待することです。これは大きな誤りです)

我が娘よ、真実に私を愛する者は、なんと少ない事だろう。(アヴィラの聖テレサへのイエズスの言葉)

 

聖マリア・ファウスティナ (ヘレナ・コヴァルスカ) (祝日10月5日 1905 -1938)

ヘレナ・コヴァルスカは、ポーランドのグウォゴヴィエツと言う小さな村で、1905年8月25日に生まれました。10人兄弟の3番目の子でした。子供のときは、とても貧しくて、同級生にも、よく笑われたと言う苦しい経験もしました。しかし、幼い頃のヘレナは、よく祈り、信仰に関する本もよく読んでいました。家族も信心深く、後にヘレナは、こう言っています。「父の祈る姿を見てとても恥ずかしくなりました。なぜなら、こんなに長い間修道生活をしても、私は、父のようにあれほど熱意を持って、熱心に祈ることは、出来ないと思えるからです。ですから、そんな両親を与えてくださった神様に絶えず感謝いたします」

ヘレナは、14歳のときからお手伝いさんとして働き、自分の家族を支えていました。そんな彼女も絶えず自分の使命を探していました。すでに、7歳の時に、神様の声、つまり、より完全な生活への招きを聞いていたのです。でも具体的な決心に至らず普通の生活を続けていたのです。さて18歳の時のことです。ヘレナは、友達とダンスパーティーを楽しんでいました。するとその時、非常に力強い神の呼びかけを感じました。受難のイエズスが現れ、「いつまで、あなたのために苦しまなければならないのだ。いつまで私を惑わすつもりか」と言われ、音楽も聞こえなくなり、周りの人々の姿も見えなくなります。ただキリストの声だけが聞こえ、キリストの姿だけが見えます。そこでこれからやるべきことがイエズスから示されたのです。

やがてイエズスの導きにより、1925年8月1日、ヘレナは、憐れみの聖母修道会に入会しました。そして志願期を終えたヘレナは、1926年4月30日に修道服とマリア・ファウスティナと言う修道名をもらいました。観想的だったシスター・ファウスティナは、祈りすぎると同僚から文句が出たほどで、あるいはロザリオを手にしながら、草取りをしていたと言う姿が伝えられています。修道生活の始めの頃は、霊的な苦しみや初期の結核で、随分、体が弱ってしまいました。そんな彼女を時には、ちょっとしたおとぎ話のような奇跡で、イエズスは、助けておられました。

やがてがシスターの死後、世界中に広まることになる、神の慈しみに関するメッセージや祈りなどをイエズスから啓示されるようになります。まずこのメッセージでは、いつくしみの御絵崇敬し、神への深い信頼を持つ事。それから神のいつくしみを褒め称えるための外的信心。それから祈りや行いなどによるいつくしみの実行が望まれています。祈りには、ノヴェナや慈しみの賛美、信頼の祈りなどたくさんあります。またいつくしみの祝日の祝い方などそのほか重要なメッセージもあります。(それは後で少し紹介します) もちろんマリア・ファウスティナも他の聖人同様、たくさんの霊的、肉体的苦痛を味わい、また周りからの誤解や病気でも苦しみました。そして1938年病室に移ったマリア・ファウスティナは、絶えず神のいつくしみを願い、最後まで味わっていた苦痛と祈りを全て罪人のためにささげていました。そして同年10月5日の夜遅く、司祭に罪を告白した後、安らかに息を引き取りました。

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